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スポーツコラム

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【第28回】レピュコムジャパン/秦英之「スポーツビジネスに情熱を傾ける。 原動力はスポーツ界への恩返し」

「スポーツビジネスに情熱を傾ける。 原動力はスポーツ界への恩返し」
レピュコムジャパン 代表取締役社長 秦英之
 

幼少期から高校まで日本とアメリカで生活するなか、「常にスポーツが橋渡しをしてくれた」と語る秦英之さん。高校以降はアメフトに打ち込み、社会人クラブチーム時代にはリーグ日本一も経験。引退後はスポーツビジネスの世界に足を踏み入れ、「お世話になったスポーツ界に貢献する」ことを使命にビジネスに打ち込まれています。そんな秦さんに日米両文化に触れた子ども時代、スポーツビジネスに出会うまでの経緯、今後の抱負などについて話を伺いました。

 

 

――幼少期から日本とアメリカで生活をされていたと伺いました。

 

ベネズエラのカラカスで生まれて3歳まで過ごしたあと、日本にいったん戻り、小学1年から6年までアメリカのフィラデルフィアで過ごしました。アメリカはさまざまなスポーツが身近にあるので、純粋にスポーツの楽しさに触れることができましたね。その後、中学1年から高校2年の途中まで日本の学校に通ったのち、またアメリカに逆戻りして高校卒業まで過ごしました。大学は日本の文化をもっと学びたいと考え、日本に戻って明治大学に入りました。

 

多感な時期に日本とアメリカで生活するなか、常にスポーツが橋渡しをしてくれました。たとえば中学時代は日本の学校でバスケ部に入ったのですが、当初、溶け込めない部分があったんです。そのとき、バスケがそれなりにうまかったので仲間ができました。異質な文化を統一するツールとして、スポーツが媒介役になってくれたのです。

 

日本の高校ではアメフト部に入り、2年の途中でアメリカの学校に転校したら、今度は日本人のマインドに逆戻りして消極的になっていた。そのときもうまく馴染めなかったのですが、あるとき、チームで一番大きい選手をタックルで倒し、それ以来仲間として認めてもらえるようになったんです。

 

大学でもアメフトに打ち込みました。アメリカで発祥したスポーツを日本で学べるチャンスでしたね。具体的には、日本ならではの部のしきたりや上下関係など、貴重な経験をさせてもらいました。

 

 

――大学卒業後はソニーに入社する傍ら、アサヒビールシルバースターへ入部されています。

 

アサヒビールシルバースターはXリーグに所属する社会人アメフトクラブチームです。私にとっては憧れのチームで、所属していた3年間、競技者として最高の経験をさせてもらいました。一番にならないといけないプレッシャーのもと、勝つための努力の仕方を徹底して仕込まれました。

 

選手は他に仕事を持ちながら、週4回集まって練習する環境です。アメフトが好きでやっているのだから、自分で責任を持って練習するのが当たり前、これがチームの方針でした。仕事が忙しいなどの言い訳は一切通用しない。だから選手一人ひとり、ストイックに競技に向き合っていましたよ。少しでも甘えを見せると排除されますから。

 

所属して1年目のリーグは準決勝で負け、2年目は決勝で負けました。勝てない理由を探るため、365日24時間の時間の使い道を振り返ったとき、抜けがたくさんあることに気づいたんです。たとえば仕事先の会食でビールを飲んでいたとか、出張先にジムがあったのに利用していなかったとか…。そうした甘えを徹底排除し、体づくりに打ち込んで3年目のシーズンを迎え、ついにリーグ優勝(1999年)を飾ることができました。ここまでストイックに追い詰めないと優勝はついてこない、そう思い知らされましたね。

 

 

――アメフトを引退されたあと、ソニーで貴重な経験をされていますね。

 

ソニーでは二次電池事業部に所属していました。エンジニアと仕事をするなか、彼らの仕事にかける意気込みを見せつけられたんです。ならば自分に向いている仕事は何だろうと考えたとき、やはりビジネスとしてもスポーツに携わりたい思いが強かった。

 

そこで当時の恩師に打ち明けると、「そんなにスポーツが好きなら、絶対にスポーツにはかかわらないほうがいい」と言われたんです。これには深い意味がありました。スポーツビジネス、つまり裏方の仕事は表面上の「好き」だけでは務まらない。個人的な感情を排除し、客観的に見られる能力を養えというメッセージだったんです。

 

その後、出張でアメリカに行く機会があり、別の恩師に「ソニーでスポーツ事業を動かしたいなら本流を勉強してこい」とアドバイスをもらいました。そこで27歳のときにアメフトを引退し、米国ソニーに転籍。世界最大のマーケットで商品を販売するノウハウを身につけることにしました。

 

また、米国ソニーに所属していたとき、スポーツビジネスと触れ合うチャンスにも恵まれました。それは、アメフトの室内競技の日米イベントが現地で開催されることになり、ボランティアでプロモーター役を任される機会に恵まれました。予算をかけずにイベントを盛り上げたいという先方の希望だったので、日米の文化交流というテーマでさまざまな仕掛けを行いました。

 

具体的には、アリーナの通路を「歴史」「芸術」「食」「娯楽」と4分割し、ジャパンフェスタと称して日本企業のブースを出展。さらにハーフタイムを利用して、ソニーが開発した二足歩行ロボット「QRIO(キュリオ)」を登場させるなどしました。これが大成功し、5000人以上動員できたんです。ずっと思い描いていたスポーツビジネスのイメージを具現化し、手ごたえを掴むことができました。

 

 

――ソニーではFIFAの広告戦略も担当されています。その経緯は?

 

米国ソニーに在籍している際、本社から連絡が入り、FIFA(国際サッカー連盟)のグローバル広告戦略に携わらないかと提案されました。ソニーは世界で6社しかないFIFAのオフィシャルパートナーの1社です。こんなチャンスはないと独立を踏みとどまり、2006年に日本に戻って担当に就きました。

 

ミッションは、FIFAのスポンサーシップの権利をいかに活用するか、という一点です。4年後の南アフリカワールドカップを始め、数々のFIFA大会を絡めた活動を推進し、スポンサーシップを最大限に活用するために世界中を飛び回りましたよ。

 

このとき、米国ソニー販売で養った客観性が活きました。なぜなら、日本人としての自分を消去しなければならなかったからです。たとえばブラジルにいけばブラジルをどう盛り上げるかを考えなければなりません。他の国も同様です。サッカーを起点に各国の文化を含めてどうプロモーションしていくか、ソニーのコンテンツも連動させながらプロジェクトを動かす素晴らしい経験をさせてもらいました。

 

 

――その後、会社を退職し、スポーツ専門の調査コンサルティング会社の日本の代表に就任されました。その経緯と今後の抱負をお聞かせください。

 

2010年に南アフリカワールドカップが終了したとき、「この素晴らしい経験をもっと広めたい」という思いが沸き起こりました。最終的にソニーを辞める決心をしたのは、何のためにスポーツビジネスに携わりたいのか、そのゴールを確認できたからです。スポーツにお世話になってきた以上、スポーツに最大に貢献できる立場を求め続けないといけない、それが自分のミッションだと確信できたんです。

 

その後、独立してスポーツビジネスのコンサルタントとしてしばらく活動し、2013年2月に現会社、レピュコム・ジャパンの社長に就任することになりました。この会社の本社はアメリカで、スポーツマーケティングのための情報収集や分析、戦略化を実現するスポーツ専門の調査コンサルティングを行っています。世界20ヶ国以上に拠点を持ち、海外で数多くの実績を持っています。このノウハウを日本のスポーツ界にどう貢献させられるか、その視点でビジネスに取り組んでいるところです。

 

将来的には、世界に通用する人材をスポーツを通じて育てていきたいですね。私自身、国をまたいだ立場で、そうした人材育成に目を向けていきたいと思っています。

 

 

レピュコムはグローバル市場についての独立・客観的なコンサルティングをワンストップで提供します。

マーケティングとスポンサーシップにおける価値を創造するという顧客のニーズにお応えするため、世界20カ所以上の拠点で、日々メディアを監視し、マーケットリサーチを実施し、ファンの意見や動向を確認しています。

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