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【第37回】松林モトキ「錦絵こそ我が生涯のすべて 筆に魅せられた絵師が伝統芸能を描く」

この記事は1年以上前に掲載しましたので、情報が古い可能性がございます。

 

相撲絵師として錦絵を現代に伝える松林モトキ氏。錦絵とは江戸時代の絵画の手法で、浮世絵(うきよえ)とも呼ばれる。相撲だけにとどまらず、落語や芸能など日本の伝統文化を描き続ける松林氏。幼少時代に鉄腕アトムや鉄人28号に興味を持ち、漫画家を目指しながらも、錦絵に魅せられ生涯をかけて作品を生み出し続ける・・・、そんな彼の人生に迫った。

 

絵をいつごろから書き出したのですか?

生まれ育ったのは長野県千曲市です。私が小学生低学年だったころ、養子に出されていた母の弟(叔父)が、20代で突然命を絶ったことを知りました。叔父の遺品の中から彼が描いたすばらしい絵画作品が次々に出てきました。小さい頃から成績優秀で絵も上手だったと、いつも母から聞かされていましたが、その言葉通り素晴らしい作品ばかりで、大いに感銘を受けたのです。さっそく自宅に持ち帰り、叔父の描いた絵を真似して描き出したのが最初です。夢中になって絵をかいているうちに障子に書いたり、ふすまに描いたりして(笑)。ですが母はそんな私を怒ることなく、むしろいつも感心してくれて褒めてくれました。

 

これがあったから、今も絵を描いているのかな。その後、小学生の頃から漫画を読むようになり、当時人気だった「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などに夢中になりました。自分も将来は漫画家になりたいと思うようになり、「よし漫画家になる!」と本気で決心したのです。小学5年のときです。中学生になると、同郷の政治漫画家として活躍していた近藤日出造先生の姪と同級生になったので、「自分は将来漫画家になりたいのだけど、近藤先生のもとで学べないか」と大胆にも頼み込んだのです。高校生のとき同級生のお母さんから近藤日出造先生が東京に会いに来なさいと言っていると聞き、すぐさま描きためた作品を持って先生の勤めていた読売新聞社に会いに行きました。すると先生は「うん、うん」と私の作品を見ながらうなずき、「かなりの素質がある!」と認めてくれたのです。うれしかったですね。その後高校を卒業し、近藤先生が理事を務める東京デザインカレッジへ通うため上京する事になり、本格的に漫画を勉強する事になったのです。ちなみに近藤先生は初代日本漫画家協会の理事長でもある方で、紫綬褒賞や菊池寛賞を受賞するような有名な方ですよ。

 

似顔絵を描くようになったのは?

2年間在籍した東京デザインカレッジを卒業後した後、近藤先生が経営していた漫画社という会社で、書生(下積み)として3年間も給与をもらいながら漫画の勉強をさせてもらっていました。最終的には5年、近藤先生の元でお世話になり、その後は別の専門学校で新たに漫画課を開設する話が持ち上がり、助手として授業カリキュラムを受け持たせてもらったり、講師の手配を行う仕事を1年ほど経験しました。専門学校で働きながら漫画家の針すなお先生の仕事を1週間に1回程度手伝っていました。針先生は今でも朝日新聞の政治漫画を描かれている方で、当時、NHKの「お好み演芸会」やフジテレビ系の「ものまね王座決定戦」などで審査員としてテレビ出演されるなど売れっ子の漫画家でした。似顔絵を得意とされる方で、私はそこで手伝うようになったおかげで似顔絵の描き方を覚えることができました。

 

似顔絵は専門学校時代、同僚の助手仲間や講師の先生方全員の顔を描かせてもらったのが本格的な描き始めです。好評で、芸大出のデッサン担当の助手から「松林さんは絵描きになる人だ!」と言われた時、「エッ?漫画だって立派な絵だと思うけど」と違和感を覚えました。

 

本格的にマスコミで仕事を始めたのは27歳の時です。当時“女性セブン”が雑誌内にテレビ欄を作るという事になり、人気番組の裏側をリポートするイラストライターの仕事をいただきました。実際に各テレビ局の収録現場に行って、当時活躍していた山口百恵さんやピンクレディーの似顔絵入りイラストや文章を書いて毎週毎週発表するというものです。2年間ほど歌番組、ドラマ、バラエティなんでも取材しました。これが評判よく、同じようなルポを日刊スポーツ、日刊ゲンダイ、朝日新聞などに掲載し、プロ野球や相撲にも広がっていきました。

 

そんな時、多忙な針先生に依頼するには申し訳ないから、と私に似顔絵の依頼が舞い込んできたのです。仕事の依頼主は、現在手塚プロダクション社長松谷さんだったのです。手塚先生は「自分は似顔絵がうまくないから」と謙遜しながら、私に似顔絵の仕事を依頼してくれました。その後、私が描いた似顔絵を見て非常に気に入ってくれたのです。それはそれは嬉しかったですね。また、松谷さんから西武ライオンズの仕事をいただき、選手の似顔絵やTシャツのグッズを担当しました。

 

錦絵・相撲との出会いとは?

ある日、高校の恩師であり美術の先生であった中村先生から銀座の画廊で個展をされる案内状が届きました。さっそく駆けつけてみると画廊主は同郷の後輩で画廊開きに恩師の中村先生に先陣を切っていただいたという訳です。先生の作品は全て完売という大成功で私もとても喜んでいたところ、先生と後輩から「次はお前だ」と告げられたのです。今までマスコミ絵しか考えていなかったので何を描くか迷いました。そこで画廊主と出入りする画商に相談したところ「相撲絵だ」と言われたのです。雑誌や新聞に“北の湖”や“魁傑”等の似顔絵を描いたりしていたのと、相撲は少年の頃からずっと見続けているファンでもあったので“やる気”になりました。しかし絵を描くにも今のペンで描くのは画廊に展示する作品としては相応しくないのではと感じていました。そんな時、神田山裕という講談師の呑み仲間がいて相談したところ、演芸評論家で有名な小島貞二先生を紹介してくれるというので、たまたま筆を使って描いた“北の湖”の顔を描いてもっていったのです。小島先生は力士も経験された方で錦絵(浮世絵)の収集家としても有名な方で、その方が貯蔵している錦絵を部屋いっぱいに広げて見せて下さいました。私はそれを見た瞬間「これだ!」と思いました。当時の私は、錦絵(浮世絵)とは伝統的な江戸時代のものであり、漫画と一線を画すものと思い込んでいました。しかし、その昔お世話になった近藤先生は筆で漫画を描いていたのです。「漫画はペンで描くもの」と思い込んでいただけで、もし近藤先生のように筆で描き、近藤先生に少しでも近づけるならば・・・。どこかにしまい込んでいた想いが爆発しました。

 

展覧会のため日本相撲協会の強化をいただき、無我夢中で筆で力士を描き出したのです。実際に錦絵の真似をして横綱“北の湖”を描いた時、ペンでは出せない浮世絵のような線が現れたのです。自分の筆先から出たこの時の感触を今でも忘れられません。私の描いていた絵が錦絵に向いていた事もあったのだろうけど。自分の人生が大きく転換する“僥倖”の一瞬でした。1980年のことです。そして夢中で力士絵を描いて展覧会にこぎつけました。すると私が描いた絵が完売してしまったのです。今までは雑誌社や新聞社の依頼で絵を描いていたので、展覧会で絵が売れるってことを知りませんでした。嬉しくてね(笑)。「横綱北の湖」「隆の里」「千代の富士」の伝統木版画も初めて誕生させました。この個展をきっかけに私の仕事のサイクルは激変しました。手塚プロダクションの松谷さんからスタジオアルタの大型ビジョン向けに1時間ごとに流れるニュース漫画を描く仕事を紹介されたのです。TV“うわさのチャンネル”で“タモリの紙芝居”等で一緒に仕事をしていたタモリさんが“笑っていいとも”でデビューするのと同じ場所での仕事でした。芸術座の“東宝名人会”の落語のパンフレットの表紙とポスターの仕事を13年担当し、近藤日出造先生が描かれていた読売新聞で社会風刺漫画「ゆうゆう漫坊」を15年間掲載しました。また、井上ひさしさんのエッセーの挿し絵も担当させてもらいました。そして故郷の千曲市の合併記念の「千曲かるた」も描きました。その後日本相撲協会様から私の相撲作品や絵番付を美術品としての承認をいただき相撲を中心に描くようになり、ずいぶんと各地で個展を30回ほど開かせてもらいました。後輩から依頼された個展をきっかけに様々な運命的な出会いとアドバイスで、僕は相撲の絵を描くようになったのです。その後国技館や大阪場所、名古屋場所等で錦絵の売店を出し、サイン会をしながら現在に至っております。

 

相撲絵師としてのこれからは?

そうですね。もっともっと描きたいですね。そして錦絵を極めたい。ここ数年は特にいろいろな方にお世話になったので、恩返しも含め、相撲界を支える一人の絵師としてこれからも描き続け、今より深まった錦絵の個展を催きたいですね。そして、長年書き続けている絵番付をもっと多くの人に知ってもらいと思っています。

 

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